2011年6月20日月曜日

「やっと笑うようになった」と言われたときの話

 私のターニングポイントである「大学生時代」の4年間。私に影響を与えたのは、友達だけではなかった。
 その当時に出会った、二人の演出家は私にかなりの影響を与えた。Y先生はその筆頭だ。
 白髪混じりのショートヘア。前髪の右半分(だったかなぁ)だけを紫色に染め、染めていない左側は刈り上げるという個性的なヘアスタイルの女性。小柄で、服装もとてもお洒落だった。出会った当時は60歳代の前半くらいだったように思う。白地にブルーラインのセントジェームスのボーダーTシャツをよく着ていて、そのTシャツを街で見かけると、Y先生を思い出すこともある。
 小柄だからか、少し上目遣いに見る癖があるのか、常にあごを引きながら皆の顔を覗き込みながら発する彼女の言葉。
 それは、彼女のもとで演劇を学ぶ私たちを一喜一憂させた。
 彼女は、思った事をストレートに本人に伝える。
 良いものは良い。ダメなものはダメ。彼女の最上級の誉め言葉は「ブラボー!」だった。
 演出家というものは、物事に白黒をつける、そういうものであるべきだ思うのだけど、本音と言うものをあまり見せない日本人社会に慣れすぎている私には、彼女が発する本音の言葉は、とっても恐怖で恐かった。
 なぜなら、人には言われたくないような事を、ズバリと言ってのけて、しかも、その指摘はあっているけれど、本人すら気付かず生きていたような事だったりするからだ。
 例えて言うなら、「あんた、プライド高いわね」とか「あんた自分勝手よね」とか、「あの子プライド高いよね」とか「あの子自分勝手だわ」とか影で言われがちなそういうこと。(この例を誰かに言っていたかは覚えていない。)それを、彼女は本人に伝える。
 他の人はどうか知らないけど、私は18年間生きてきて、そんなこと面と向かって言われたことはなかった。
 私が直接彼女に言われた言葉で、忘れられないものがある。
 大学に入学して3ヶ月くらい経った、夏の日だったと思う。
 「あんた、やっと笑うようになったね。今までずっと笑ってなかったよ」
 授業中に、皆の前で彼女は私にそう言った。
 ものすごく、驚いた。
 彼女は、私にはっきりと「あんた、やっと笑うようになった」と、そう言ったのだ。
 え?私って今まで笑っていなかったの??じゃぁ、笑っていると思っていた、面白いときにしていたあの行為はなんだったのだろう???
 頭の中のクエスチョンマークは数えても数え切れなかった。
 「本気で笑わない、仮面のような顔をしていた。表情がなかった」と言ったのだ。
 彼女に何かを反論したかどうかも覚えていない。
 その場では何を言われているかもわからなくて、泣きも笑いも、わめきも何もしなかったと思う。
 その日、私はお酒を飲みながら泣いたような気がする。もう、忘れてしまった。
 ただ、ショックだった。
 「笑っていない」という事を指摘された事がショックなのではなくて、「自分が本気で笑えていなかった事に自分自身で気付いてすらいなかった」ことがショックだったのだ。
 そこから、私は初めてといってもいいくらいに、自分の生い立ちや、なんで笑っていなかったのか、とか理由を掘り下げはじめた。彼女とも何度かそれについて話をした。
 今なら、誰かにそういう指摘をされても、「いや、私、楽しい事があったら笑っていますし。どういう意味ですか? それ?」と聞き返せるかも知れない。
 でも、その当時の私は、言われた事をそのまま受け止めて、なんでだろう? なんだろう? なんのことなんだろう? と抱え込んで深く悩み続けた。
 全ては、後々だからわかることだけれど、父親の影響が大きかったのではないかと思う。彼女ともそんな話をした。
 私の父親は、元警察官で常に怒り顔の恐い人だった。亭主関白タイプで、曲がった事が大嫌い。そして、自分の言っている事が全て正しい、と思っている。そういう人だった。
 彼が「今は赤だ」と言えば、青色の信号も赤色だから、止まらないと怒られる。
 ずっとそうだった。小さい頃からずっと。
 でも私は「それは間違っている。今は赤やで」と反論していた。反論すると何が起こるかというと、左頬を叩かれるのだ。
 そして、それでも懲りない私は、「だって赤やもん!」と続け、右頬も叩かれる。
 「お姉ちゃん、アホやなぁ。お父さんが赤やって言ったら、赤やなぁ、って言ってあわせといたらいいねん」と弟は私に言っていた。
 それだけではないだろうけど、そういった事も原因で、私は自分の本心をあまり人に見せないようになっていったのかも知れない。
 友達の家によく泊まるようになって、家族揃って食卓を囲むことが減ったある日。久々に家族全員で食卓を囲んだ。
 父親が、私の目の前にある醤油か何かを取ろうと手を伸ばしたときに、私は、叩かれる! と思い、私の体が咄嗟によけるような動きをした事があった。Y先生に「笑っていなかった」と言われて、自分掘り下げをしていたさなかに。
 あっているかどうかはわからない。けれど、もしかしたら、こういったことも原因の一つで自分の感情を隠しながら生活をするようになったのかもしれない。そして、そのことにすら、気付いていなかったのかも知れない。
 そう思った私は、父親の側から離れよう。そう思って、タイミングもあり、友達との4人暮らしに踏み切った。
 「笑っていなかった」かもしれない、ということは、彼女にそう言われなければ気付いていなかったかも知れない。
 もしかしたら、知らなくてもよかったことなのかもしれない。でも、言われてしまったということは、そう思う人がいるような表情で毎日を過ごしていた。ということだ。
 よかったのか悪かったのかはわからない。けれど、彼女に言われた事は私の人生の中で重要だったと思うし、自分を考える機会にもなった。そこから、私は自分自身のことを知ろう、と思い始めた。

2011年6月13日月曜日

人生における「ターニングポイント」の話

 「カ行」の質問を投げかけてきた友達に「トイレに行っている間に考えておいてね」と言われた事柄が、実はもう1個あった。
 それは「今までの人生においてターニングポイントは何回あった?」というものだった。
 その言葉を受けた私の回答は「34年間で10回くらいかなぁ」という曖昧なものだったのだが、間違いなくあれはターニングポイントだった、と思える時期に「大学時代」がある。
 私は大学で演劇・芸能専攻という、4年間で演劇について学ぶ大学に通っていた。
 あそこに通っていなかったら、今の私はいないだろうと確信するくらい、あの時期に受けた影響はとても大きい。
 それは、性格や考え方、人との付き合い方、更には人生そのものを変えたのではないだろうか。それがよかったのか悪かったかの判断は自分では出来ていないが、とにかく影響力大!だったのだ。
 影響の一つに、「大学時代の友達」という項目がある。
 私は、子供の頃、人と仲良くなることが得意な方ではなかった。
 初対面の人と話すことは苦手だし、自分から声をかけるなんてもってのほか。仲良くなるのにも、かなり長い時間を要し、仲良くなったとしても「この人、本当は私のこと好きじゃないのに、無理して一緒にいるんちゃうかな」と常に疑っていた。
 小学生の頃の通知簿に「何事にも消極的です」と書かれることも、一度や二度じゃない。
 おそらく、今現在の私だけを知っている人がこの話を聞いたら、すごく驚くのではないだろうか、と思うくらい、年を重ねた私は、初対面でもにこやかに人と接することが出来るようになった(はず)。
 とはいえ、初対面のときに心の中の緊張度数が100%超えなのは変わらないし、人見知りだからこそ、にこやかに話す術を身に付けたということもある。
 でも、その印象を変えたのには、大学時代に出会った友達の影響がある。
 演劇・芸能専攻は、1学年が約50人の1クラスで、卒業するまでの4年間、メンバーは変わらない、という構成だった。だから、学科内全員と知り合いだった。同学年だけでなく、学年を超えてまで、知り合いだった。
 大学の学科という場所で、そのような構成は珍しいと思うのだが、その特殊な関係性の中、私は、同じ学科の友達と一軒家で共同生活をしていた。
 私を含めて4人暮らしだった。一緒に暮らした4人は最初から、特別仲が良かったわけでも、悪かったわけでも、同じグループに属していたわけでもなかった。
 演劇をやるとなると、学生といえども、夜遅くまで稽古をしたり、一晩かけて芝居の公演の準備をしたり、ということがあり、神戸から大阪の大学に往復約3時間半かけて電車通学をしていた私は、家に帰る事が面倒で、仲良くなった友達宅に泊まらせてもらうことが多くなった。
 「泊まりに来てもいいよ」と言う優しい言葉をかけてもらえたとはいえ、少しは気も使うし、あまりに泊まりすぎるのは申し訳ない、とも考える。でも、毎日家に帰るのは遠くてしんどい、と思っていた。
 同じような考えや状況の子が何人かいて、その中でも同郷の神戸から通っていたYとは「今日、家帰る?」「私、○○ちゃんとこ泊まる」「えー。Yが帰らんのやったら、私も神戸まで帰るの面倒くさい」「どっか泊まらせてもらえば?」という、なんとも泊まられる人のことを考えていない会話が、度々交わされていた。
 そんなYと、実家から通えるけどちょっとしんどいなぁ、という同じ状況で、他の2人、MとAが集まって、一緒に暮らし始めたのだ。
 おそらく、大学生活も2年目くらいになった頃だったと記憶している。
 4人はもともと大の仲良しではなかった。だから、自然に、4人それぞれの仲の良い友達が共同生活をしていた家に遊びに来る、ということ起こり、特別仲が良いわけではない、同学科の顔見知りが、自分の家に泊まりに来る、という不思議な現象が起こった。
 学校生活を共にするだけではここまで話さないだろうな、という子とも、一つ屋根の下で、一緒にご飯を食べて、同じ部屋で眠る、ということが起こった。
 この生活によって、良くも悪くも、私の人との距離感の取り方や付き合い方は変わっていった。だって、家に帰ったら、友達の彼氏がパンツ一丁で転がっていたりするのだ。それはそれは驚くべき事実だけれど、あまり物事に動じなくなったんじゃないだろうか。
 友達にして、姉妹のような、何があっても許せる家族のような関係、というのもはじめて経験した。一緒に過ごす時間が長い分、いろんなことを話したし、喧嘩もしたし、泣いたり、笑ったり、怒ったりという感覚を共有もした。
 なかなか、人と本心で話すことができなかった私が、本心を出せるようにもなった。逆に、あまりに距離が近すぎて、本心を出さなくなったりしたこともある。けれど、きっとそれも、その時に学ぶべきことだったのだろう。
 とても有意義で濃い時間だったことは間違いない。
 その証拠に卒業して10年以上経つけれど、大学時代の友達との縁は切れることなく繋がっている。
 そして、関係性も当時と変わらず、頻繁に連絡をとっていない友達でも、タイミングが合ってみんなで会うと、その場に誰がいても、違和感なく時間を共にすることができる。
 先日、友達2人から、偶然にも同じタイミングで連絡が来た。
 1人は、同居していた友人M。はじめて出会ったときは、抜きすぎた(と彼女が言っていた)茶髪が、彼女のはっきりとした目鼻立ちをハーフのように見せていた。でも、純日本人で、少し広末涼子に似ている。でも少しだけ……という理由で、飲み仲間からは「なんちゃって広末」と呼ばれたり、最終的には広末が省略されて「なんちゃって」と呼ばれたりしていた。今現在の彼女は、当時から好きだったミュージカル劇団の照明チーフとして、日本全国のツアーに出る活躍をみせている。そんな彼女は、家は東京に借りているのに、1年の3分の2以上東京を離れているため、滅多に会うことは出来ない。
 もう1人は、大学を卒業してから1年半くらいの期間、二人暮らしをした友達K。初対面の時から、誰にでも屈託のない笑顔で接していた彼女は、ほとんど話をしたことなかった私にも「家に泊まりにおいでぇやぁ」と広島弁を操りながら、スコーンとかなりのスピードで、距離感を縮めてきたのが印象的だった。人との距離感を縮めるのに、非常に時間を要していた当時の私は、実は面食らったりしていたのだが、彼女のおかげで、こういうコミュニケーションの取り方もある、ということを知ることができた。今は広島で実家の稼業を継ぎ、社長としてバリバリ働いている。
 MとKと私の関係性はというと、Kが4人暮らしのメンバーのYと仲が良く、Yの友達として4人暮らしの家に遊びに来ていて、そこには、もちろんMと私もいる、という状況。卒業後にMとKが2人で会ったり、連絡をとる関係かというと、そうではないけど、会ったらきっと何も気構えずに話すことが出来るだろう、と予測がつく、普通に考えたらあまりない関係性だ。
 その、MとKから、偶然同じタイミングで「東京にいるから&東京に行くから会おう!」と連絡が来た。これはすごいタイミングだ、と興奮して3人で会うことを提案した。
 結果は予想通り、2人とも喜んでOKの返事をくれ、なんの違和感もなく3人で時間を共有して、会っていない期間なんて関係ないくらいに、一気に10年前の感覚に戻った。
 私の家に泊まりに来た2人と、夜中じゅう、眠い目をこすりながら、話をし続け、こんな関係って本当に幸せなことやなぁ、部屋の床で雑魚寝している2人の寝顔を見ながら1人でにやついていた。
 もし、演劇・芸能専攻を選択していなくて、彼女達と会っていなかったら、この関係はないし、この感覚もないのだ。
 もしかしたら、私は未だに、人との距離感の取り方がわからずに過ごしていたかも知れないのだ。
 そう考えると、大学時代の友達との出会いは、私にとってのターニングポイントであることは間違いない。
 そんなことを考えながら、2人が帰った後、当時4人暮らしを一緒にしていたYとAに久々にメールをした。

2011年6月6日月曜日

人生において大事な「カ行」の話

 「人生の中でこれは必要だ。大事だ。という事柄が『カ行』の中にあります。は『感動』。“キは『希望』。“クは『苦しみ』。“ケは『健康』。では“コは何でしょう?」
 一緒にディナーを食べていた友達が「私がトイレに行っている間に考えておいてね」と言い残して、私の目の前から消えた。
 彼女がいなくなった席で一人、私はグラスに残っていた赤ワインに口をつけながら、彼女の言った『カ行』を心の中で復唱した。
 “コは何か?と問われて、真っ先に浮かんだのは柄にもなく、『恋』だった。
 『恋』『恋人』……なんか、しっくりこない。
 自分で断言すると、言霊パワーで真実になりそうで、あまり堂々といいたくないのだけど、私が人生の中で大事だと思っている事柄に優先順位をつけたら、『恋愛』に関する事柄は残念ながら低い。えぇ、間違いなく低い。
 そりゃぁ、両親の初めての上京という「娘、東京で恋に仕事に頑張っていますから大丈夫ですよ」というアピールを許された大チャンスに「恋人はおろか好きな人すらいませんので誰も紹介できません。すみません。仕事ですか? ぼちぼちです。すみません」と謝る羽目になる訳だ。
 まぁ、それはともかく、ダントツ1位は『仕事』とか『夢』といった、一生をかけて、生きる為にやりたいと思っていることが入る。2位は『友達』『人との出会い』『縁』あと、『タイミング』もこの分野かなぁ。3位は『日常』『おだやかな日々』? というところで、4位あたりに『恋愛』だろうか。
 まぁ、この辺りまでくると何位でも変わらないのだけど、上位ではない、という悲しい事実は浮き彫りになった。
 ここまで思いを巡らせ「カ行の“コ」に立ち返ったところで、戻ってきたお友達に答えた私の回答。
 「ことば!」だった。
 私の人生で大事な“コは『ことば』だと直感的に思った。
 彼女の回答は、「昔は『こだわり』で、今は『コミュニケーション』かな」。
 私の『ことば』も『コミュニケーション』の一部だと思うが『コミュニケーション』の方が更に『言葉』だけではなく、『態度』や『抱擁』といった、動的なアクションや『人間関係』も含まれるのだろう。
 最近、ある方と握手をする機会があった。この『握手』という『コミュニケーション』もまた、独特なものだ。
 抱きつく行為は、パーソナルスペースに入り込む接触。『握手』というのはそこまで距離を縮めなくとも出来てしまう、それでも、相手の体温や、手の形から、普段の手の使い方やその人の人生みたいなものまでみえてしまう、ものすごい『接触のコミュニケーション』だ。
 私が握手をしたその人は、見た感じは男性だけれど華奢、という雰囲気であるのに、手でわかった。とても、しっかりとした、骨太な手だった。クリエイターである彼は、今までその手で多くの創造物を生み出してきたのだ、と感じると何とも言えないドキドキ感が私の中に生まれた。
 私の友達は「カ行」の質問を約50人に聞いて統計を取った事があるらしく、堂々の1位は「子供」で2位は「孤独」とのこと。
 その結果に驚いた。1位はともかく、世の中の人はそんなに「孤独」と隣り合っているのだろうか?
 一人の時間が欲しい、とか、自分自身を大事にしている、ということが、多くの考えのもとだろうけど、私が感じてしまったのは、たくさんの人々の中にいる『孤独』。
 最近は、鈍感になってしまったのか、何も考えなくなったのか、大人数の中での自分の位置の置き方を覚えてしまったので、あまり感じる事はないのだけど、10代後半から20代前半の頃は、周りに人がいればいるほど『孤独』を感じる時期があった。
 私はひとりぼっちだ。誰も私の事なんてわかっていないし、誰も私を必要としていない。
 そう感じて一人で勝手に気持ちを荒らし、夜通し、バーでお酒を飲み続け、時には涙を流したりもした。
 今考えると、とても幼稚で恥ずかしい行動に思えるが、それはその時の精一杯だった。
 よくわからないけど、もがいていたのだ。
 30代も半ばに差し掛かった今、誰も私の事はわからなくていいと思っている。だって、私自身も100%、自分を理解できていない。そして、私を必要だと思ってくれる人がいるなら、必要としてくれればいい。私も誰かに頼りたい時は頼るし、頼れる友達もいる。
 人との距離感がわかるようになったのかもしれない。昔は距離感がわからなくて、勝手に孤独を感じたように思う。今は一人でいても、あまり孤独は感じないし、大人数の中でも感じない。淋しく感じた時は、淋しいといい、友達とコンタクトをとる。
 これが私の楽に生きるための、人との『コミュニケーション』の取り方だと気づいた。
 できるだけ、楽観的に、楽に生きる方向に自分を持っていく方法を覚えた。
 だって、人生は一度きり。それだったら、苦しいより楽しい方がいいに決まっている。
 そこに行き着いたのは、私が今までの人生の中で出会ってきた『ことば』がある。
 多くの『ことば』に感銘を受け、支えられれてきた。『ことば』で傷つく事があっても
別の『ことば』で立ち直れる事もある。
 だから、私は『ことば』を書き続ける人でありたいと思い、人生において大事なコ“は『ことば』なのだと思う。
 そんな思いから、『ことば』をテーマに毎週思う事を書き綴っていこうと思う。
 多くの素敵な『ことば』を記すことが出来れば。